秋の心

愁殺、なる言葉を教えてもらう。意味はひどく嘆き悲しむということで、殺は単に強調の助字らしいのだけど、なんというか凄い字面だな。。

雨ばっかりなので昔からそういった落ち込みやすい気分になったりする季節なのかも。オーライ。


f:id:kakushisetutoshokan:20160928234616j:plain
これらの作品は、何らかの事情で居場所を喪失した孤独な子供が、一時的に滞在している場所(たいていは古い屋敷)で「過去との邂逅」を経験し、それによって孤独が癒され、自分の居場所を(再)発見するに至る、というモティーフが共通している。(2010安藤聡「ジョウン・G・ロビンソン『思い出のマーニー』―過去との邂逅あるいは和解」)
古い屋敷というモチーフは、自分と「過去」との連続性に気づいて孤独を癒してくれるという機能を持っていると。我が家は築30年くらいなのでそんなに歴史もないからなあ。

そういえば、昨日の宮崎駿氏本を読んだこともあって、古い屋敷で思い出したのがとなりのトトロだった。上の安藤氏の指摘を考慮すると、古い屋敷との対比で子どものサツキとメイの孤独が表現されていたんかなあとか思ったり。というかサツキとメイの孤独がテーマだったのかもと昨日気づいた。多分サツキとメイが元気で明るい印象だったから気づかなかったのかも。まあそれにしても気づくの遅かった。



最近風呂上がりはふらふらになってしまいがちで、化粧水などで手入れしようとする前に疲れて寝てしまっている。どうしたんだ自分。がんばれ自分。

帰りに予約本を貸出して

いただきました。図書館の方ありがとうございます。


f:id:kakushisetutoshokan:20160927212935j:plain

宮崎駿氏の『本へのとびら』岩波書店、2011年。

f:id:kakushisetutoshokan:20160927213126j:plain

なんと思い出のマーニーが。出版が2011年なので、マーニー映画化以前ということですな。風立ちぬ制作時期に書かれた本みたい(150頁)。

宮崎駿氏が50冊選んだということで、そのなかにマーニーが入っているという情報を聞き、予約。

本文は字もわりと大きくて読みやすかったので、帰ってから一気に読んでしまった。マーニーの言及箇所を探していたのだけど、管見では見つからず。上の画像の頁だけみたいですね。

何年もたってあなたが大人になって、この本のことをすっかり忘れてしまっても、その家はあなたの中にずっとありつづけます。23頁


一昨日くらいに、マーニーに関する文章を読んで、イギリス文学ではこの古い屋敷、というモチーフが結構大事よと書いてあった。

まあ今日はここいらへんで。


秋雨前線やら台風やら

確認できる本日の天気図。

衣替えなのでカビっぽい秋物は洗濯したいのだけどこのままじゃなんともだ。


f:id:kakushisetutoshokan:20160925232236j:plain

今日は運動会だった学校もあるみたいだったけど、ギリギリ開催だったぽく。

9月を乗り切ろう。あと少しだけど。

ご当地では運動会シーズン

なのですね。

小学校のそばを通ると万国旗が飾られておりました。


帰宅して気分も晴れず疲れているらしく、布団でそぞろな気分に浸っていた。こういう気分はシーズン的なものなのか?と思いつつ、確認のため去年のブログを見ると、頭がガンガン痛いみたいなことを口走っていた。いつも通りなのですね。


合わせて、去年の今頃は思い出のマーニーについて書いており、そういえば…と思って検索をかけてみたらざくざく見たことないいろんな情報が出て来て吃驚。ええやん。


f:id:kakushisetutoshokan:20160925002427j:plain

前に買った古本(1978年出版)から出て来た。郵便番号が3ケタだったとか、にわかに信じがたい。。


この漠然とした

哀愁は畢竟するにその漠然とした形のまま死か生かの分岐点まで押しつめ突きつめて行くよりほかに仕方がない悲しさなのだ。

その極まった分岐点で死を選ぶなら、それはそれで仕方がない。併しもし生きることを選ぶなら、(選ぶというよりもそのときには生きる力と化するのであろうが)まことに生き生きとした文学はそこから出発するのだと私は考えている。

ドストエフスキーがそうだったのだ。彼の文学は悲願それ自体ではなく、それが極点に於て生きることに向き直ったところから出発したものであった。生き生きとした真に新らたな倫理はそこから誕生してくるに違いない。

1935 坂口安吾「悲願に就て──「文芸」の作品批評に関聯して──」

ドストエフスキーかぁと思うも、坂口氏の戦前の文章なのだ。古いよと思うか、古くても構わないと思えるか。



f:id:kakushisetutoshokan:20160923230455j:plain

帰りに遅くなったついでにロードサイドモスへ。トレイに敷いてある紙がかわいい。こういうのをフラットデザインと言うのだろうか。いい感じ。




この漠然とした哀愁は


畢竟するにその漠然とした形のまま死か生かの分岐点まで押しつめ突きつめて行くよりほかに仕方がない悲しさなのだ。その極まった分岐点で死を選ぶなら、それはそれで仕方がない。併しもし生きることを選ぶなら、(選ぶというよりもそのときには生きる力と化するのであろうが)まことに生き生きとした文学はそこから出発するのだと私は考えている。ドストエフスキーがそうだったのだ。彼の文学は悲願それ自体ではなく、それが極点に於て生きることに向き直ったところから出発したものであった。生き生きとした真に新らたな倫理はそこから誕生してくるに違いない。

1935 坂口安吾「悲願に就て──「文芸」の作品批評に関聯して──」


ちょっと引用長いですね。

坂口氏はこの書評では無秩序なことを口走ったり、倫理などと秩序維持の方向を向いていたりと。

ちなみにこの書評には、川端康成が出ており、坂口氏は割と褒めている。


f:id:kakushisetutoshokan:20160919041443j:plain

寝ます。