この漠然とした

哀愁は畢竟するにその漠然とした形のまま死か生かの分岐点まで押しつめ突きつめて行くよりほかに仕方がない悲しさなのだ。

その極まった分岐点で死を選ぶなら、それはそれで仕方がない。併しもし生きることを選ぶなら、(選ぶというよりもそのときには生きる力と化するのであろうが)まことに生き生きとした文学はそこから出発するのだと私は考えている。

ドストエフスキーがそうだったのだ。彼の文学は悲願それ自体ではなく、それが極点に於て生きることに向き直ったところから出発したものであった。生き生きとした真に新らたな倫理はそこから誕生してくるに違いない。

1935 坂口安吾「悲願に就て──「文芸」の作品批評に関聯して──」

ドストエフスキーかぁと思うも、坂口氏の戦前の文章なのだ。古いよと思うか、古くても構わないと思えるか。



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帰りに遅くなったついでにロードサイドモスへ。トレイに敷いてある紙がかわいい。こういうのをフラットデザインと言うのだろうか。いい感じ。