『ゆめくい小人』

今日は、エンデの短編「ゆめくい小人」(『エンデ全集』14、岩波書店、339ー349頁)


その前に、この前の『モモ』②のところから。


モモ、ひとつだけきみに言っておくけどね、人生でいちばん危険なことは、かなえられるはずのない夢が、かなえられてしまうことなんだよ。いずれにせよ、ぼくのような場合はそうなんだ。ぼくにはもう夢がのこっていない。きみたちみんなのところにかえっても、もう夢はとりかえせないだろうよ。もうすっかりうんざりしちゃったんだ。」(『モモ』)


ストーリーテラーのジジのセリフだ。

物を書いたりデザインしたり、何かを創作しなければならない人にとって、このジジのセリフは思い当たるところもあるのでは?


つまり、カンタンに言ってしまえば、”ネタ切れ”の状態だ。



といっても、ネタを見つければなんとかなるといった類のものではないときもあるのが、このネタ切れ症状の怖いところだと思う。


小さい時に、このジジのセリフを読んだときは、彼に何が起こっているかが今ひとつピンと来なかった。なんとなく、檻の中に入ってしまって出られないかわいそうな人、くらいに思っていたのではないかと思う。 

いずれにせよ、感情移入できなかった部分の方が多かった。


ところが、だ。大きくなってみて、ジジの症状がよくわかるようになってしまった(恐らくはエンデもこの症状にかかっていたということなのかもしれない)。


夢がかなってしまうというこわさ。


一見すると、夢が叶って良かったじゃないの、と思うだろう。

でも、こういう状況だとどうだろう。

自分が、長年かけて表現しようといろいろ準備してきたものが(そしてそれが生きがいとも言える喜びでもあった)それにもかかわらず、とっくの昔に誰かの手によって(しかも自分より上手に)実現されていたのを知ったとき。


(自分ではなく他人の手によって)夢がかなってしまったという皮肉。


おそらくこの場合の夢というのは、利己的なものだけというよりかは、ある種社会的使命のようなものも帯びているのではないだろうか?

だから他の人によって実現されていれば、社会的にはもう彼によって実現される必要はまったくない、ということになるのだろう。


他の誰でもない、自分の手によって実現する、ということに多く意味があるようにも思う。(つまりは、成功して、売れて、周囲を見返してやる、という気持ちもどこかあってそれが彼を長い間支えていたのではないか)


まあ、憶測はこのくらいにして、

ともあれ、ジジはそこからどうやって回復していくのだろう?とふと思ったのだった。


残念ながら、『モモ』のなかには、ジジがこの後どうやって立ち直っていったかは直接的には書かれていない(ラストには元気になって戻ってきているのだけれど)。


この疑問に応える、アンサーソングみたいな短編が「ゆめくい小人」だ。


あらすじをかいつまむと、

とある国に”すやすやひめ”という姫がいらっしゃるのだけれど、なぜか寝るのが怖くなってしまう。その理由は、「しょっちゅう、とてもこわい夢を見るから」(ここで、ジジのあのすっかりうんざりしちゃったという状況を重ねてみることができる)

そこで、父親の王さまが国中をすやすやひめのために旅をする(おそらく、この愛するもののために旅に出る、というのもエンデの大事なモチーフなのだと思う)


で、最後に迷った森のなかで出会うのが、「アザミかハリネズミのようにとげだらけの顔」で、「顔に千本ものわらい小じわをこしらえ」ている”ゆめくい小人”。(エンデのこういう人物描写は『はてしない物語』にも『モモ』のマイスター・ホラ等々にも通じるところがある。要するに、老いの描写が入っている)


この悪いフラグしか立たなさそうな小人に事情を話すと、「いいよ〜」くらいの軽さでなぜか承諾してくれるのだ(のように私には読めた)。


そして王さまに次の呪文を書いた紙を渡し、すやすやひめにこれを唱えるように指示する。


ゆめくいこびと、ゆめくいこびと/つののナイフをもってきておくれ/ガラスのフォークもってきておくれ/ぱっくり大口あけとくれ/子どもをおどかすこわい夢/はやく、はやくたべとくれ/けれども、きれいでやさしい夢は/たべずにのこしておいとくれ/ゆめくいこびと、ゆめくいこびと/まねきをうけて、きておくれ(前掲345頁)


で、このあと、「どうしたらよいものかのう」「そんなぐあいにいくものかのう」とか言って、王さまがごちゃごちゃするのだけど(話ぶりからしてかわいい王さまなのだと思う)、


小人は

「しちめんどくさい」


と言って一蹴。(このあたりにくると、小人がすごく頼もしい存在に思えてくるから不思議)


以下小人のセリフ

「そうさ、ぺろりってくっちまう。こわければこわいほどすきなのさ。たくさんあればたくさんあるほどうまいのさ」

「ハリネズミは、ヘビやカタツムリがきだろう。おいら、いってみればゆめくいハリネズミさ。それで、こわい夢が口にあうっていうわけよ。そのために、おいらがいるんだから。」


どうだろう。ここまで読まれた方は、ジジがどうやって回復したかも推測がつくだろうか(といっても、勝手な類推適用ではあるが)。


ジジにもこのように、悪い夢を食ってくれる小人の存在が、あるいはその存在を探してくれる勇気ある王さまが必要なのだと思う。


いや、それが誰かである必要もない。その悪い夢を知っているならば、当人もその悪い夢を食べる方法を見つけられるすぐ近くのところまで来ているのではないか?


そうすることによって、他の悪い夢を見る人々が回復する手伝いもできるという新たな夢を持てるのではないか?


そうすると、今までの悪夢も、新しい夢を持つためのプロセスの一部だったと見ることもできるのではないか?そのようにして回復することも可能ではないか?


・・・ということを読んでいて思った。短い作品なので、あらかた筋を紹介してしまったのだけど、小人の描写は読んでいてすごく感慨深いものがあるので、ぜひ読んでみて欲しいと思う。


いや、でも、この短さで、しかも表現の面白さ(翻訳も良いのだと思う)もあって、この内容というのは、私的にはとても圧巻の思い。


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そういえば、エンデのこう言っていたのを思い出した。

シェークスピアの芝居を見にいったとする、そのときもです。私はけっして、りこうになって帰るわけではありません。なにごとかを体験したんです。すべての芸術において言えることです。本物の芸術では、人は教訓など受けないものです。前よりりこうになったわけではない、よりゆたかになったのです。心がゆたかにーーそう、もっといえば、私のなかの何かが健康になったのだ、秩序をもたらされたのだ。/およそ現代文学でまったく見おとされてしまったのは、芸術が何よりも治癒の課題を負っている、というこの点です。(『エンデと語る 作品・半生・世界観』朝日新聞社、2005年、68頁)


今夜も長々と書いてしまった。

お付き合いいただき、ありがとうございます。



それではみなさんごきげんよう。


すやすやひめ