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時間の概念

祖父母が時計を読めていないのではと、いつの頃からか気づくように。

時計をアナログにしようが、大盤のデジタルにしようが、いまが夜・昼の何時ということが明確になっていないようだ。

週に一、二回デイサービスに行く祖母はまだかろうじて時間が読めている。

寝たきりの祖父に時間はもうない。


私たちは時間に従って動く。そういう社会システムだからだ。銀行は3時までにがんばって行かねばならないし、妊娠できる時間も限定されているから、そのためにいろいろアレだ。

時間の概念を失うということは、そうした一部社会システムから目に見えない形で弾き出されるということか?

M・エンデの『モモ』に、時間とは私たちの生活のことだという箇所があったような。

モモには、人々がひーこらひーこら時間を細切れにし、せこせこする描写がある。怒りっぽくなって、人の意見はろくに耳を傾けない。喧嘩っぽくなる。子どもらは詰め込み教育的で、将来役に立つ知識を遊びのなかにもバンバン組み込まれている。どこが人間らしい生活?というわけだ。


細切れにされる時間のシステムはそれでもやはり合理性を持っているし、これからもそうだろう。そういう社会システムはおかしいみたいなことを言うのは常人には難しいように思う。いろいろ問題はあれど。


ただ、エンデがそういうのっぴきならなさを重々承知の上で、こういう話を持って来たとすれば、そのことにはいろいろ考える。『モモ』は時間の定義を変えようとする試みだったのでは。

あたりまえなことが無くなって、別なものが登場している世界を想像できるか?みたいな挑発をいささか感じる。試みるというのは挑発的な行為だ。


良くも悪くもエンデは挑発的な存在だ。



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陳腐な存在論でまとめてしまった。
すんません。