たまにはまじめに

締切が急遽1ヶ月も短くなってしまったので、いまわりと修羅場だ。


ここでこういうことを書くのは日常的にノミの心臓で人に言いかえすことができないからなのだ、私は。


今日はコレ。
『ものがたりの余白』(ミヒャエル・エンデ、聞き手・田村都志夫、岩波書店、2009年)

わたしが指摘したいのは、ストーリーではなく、主人公モモのあり方なのだ。このメルヒェン物語において、エンデは、静かにそこにいるだけの不思議な少女としてモモを描くのだった。この主人公は、いわば行動派ではなく、存在派なのだ。それは特に物語前半において顕著なのだが、モモのその特質を象徴するのが、耳を傾ける姿勢にほかならない。

あまり『モモ』のレビューを書こうという気になれなかった、というと失礼千万だが、難しいのだ、この作品は。


ひとつには、これが児童文学という枠であること。

そしてもうひとつは、ストーリーが時間泥棒を消滅させるという勧善懲悪的な要素込みなので、そのようなレビューならば別に必要ないのはわかりきったことだったからだ。


そうした時に上の田村氏による解釈を目にした。


あり方、という言葉がシンプルだけどすごくいい。

そうなのだ、あり方。

たたずまい的な何かなのだ。

そしてそのあり方、耳を傾けるという姿勢。


エンデが、この物語のヒーローを静的な形で試みたのは、行動を通じてではなく、静的に、つまり絵画的に物語が展開しないものかと思ったからだろう。同時に、世界を健やかにするには果敢な行動よりも、まず新しい価値の姿を聞き取ることが必要だと確信していたからに違いない

田村氏は、どうやら勧善懲悪的なストーリーよりも、このような静的な形を指摘しているみたいだ。


ちなみに私は、静寂さと言えば、ややベタかもしれないが、Simon & Garfunkel のSound Of Silence の歌詞を思い出す。


静寂さのなかに立ち現れてくるもの、といったところか。



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やらなければいけないことがあればある程、違うことに逃げようとする。

まあ、今夜もぼちぼちでんな。