なんせ



いささか唐突な出だしなのだけど、このブログを始めたとき、図書館を作りたいと思っていた。図書館でもいいし、図書室でも構わないので、自分にとって都合の良い空間みたいなものを考えていたら、それが本に囲まれた場所だったというわけだ。


でもまあ、現実的には架空のままでよかった。実生活はそれどころじゃない、ということもあるのだけど、実現しない方が長く楽しめるように思ったのだ。



ともあれ、どんな小さな図書館/室でも、たまに面白い発見のある時がある。


小学校のとき、誰も読まないようなセクションの本を手に取って読むのにハマっていた。江戸川乱歩や世界児童文学、ギリシャ神話といったものだ。家では買ってくれない分厚いハードカバーの本が自由に読めるのが嬉しかった。

ところで当時、なぜかワタシにつっかかってくる女のコ連中が数人いて(ワタシは当時学校でほとんど喋れなかったので変人扱いされていた。それはワタシも知っていた)、なんでそんな他の人が読まない本ばっかりいつも読むの〜?などと聞いてきたりした。

こういう類の質問責めは悪意がうっすら透けて見えるので、子ども心にも感じるところはあった。ワタシがまごついていると(当時、ワタシはコミュニケーションがものすごく下手だった。今も残留している)、ワタシの返答など聞かずに去って行った。


子ども心にずっと思っていたことが二つある。


一つ目。自分を含め、子どもは残念ながら純粋で無垢で天使ではない(ことの方が多い)。

二つ目。どんな批判を喰らおうがかまうことか!



というものだ。これらは今でも思い出している。なぜなら、大人になっても、類似の生存競争は継続されるハメにあるからだ。

ただ、時間が経ってわかることに、いつまでも被害者ポジションではいられないという場合もある、ということだ。そこから、シュンとなって粛々とした態度になっていった。


他人の悪意を肯定したいわけでもなく、かといって全面的に否定するのでもなく。笑いたければ笑えばいい、自分は笑わない、という感じになった。でも手と頭は動かす。どうにかなることを探してそこに集中する。それで当座は十分じゃないか?どうだろうか?



かように、図書室という空間は、ワタシにとっては、思い出すのがいやな空間でもある。でも今となっては、違った見方があるということをいろいろな機会もあって、長い間の認知的不協和が、ごくごくわずかでしかないのだけど、別の親しみ深いものに変わっていった。そして、本という存在も、多くの機会のうちの一つを成してくれているのだと思うようになった。



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今日の夕方時。黄昏感が。。



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うむ。



1:00AM

先ほど電話が一回鳴った。


眠いので、寝ましょうね。


おやすみなさい。