ぱしぱし

とキーボードを打つ。


昨日のアンデルセンの『雪の女王』を再読して、いろいろと思い出す。


この『雪の女王』は、日本のアニメ(おそらく戦後)に少なからず影響を与えているということが、ネットの情報に転がっていた(Wikipediaだったかも)。


個人的に思いつくのは、あのとなりのトトロという作品のなかで、メイがお母さんに会いに行こうとするところ。(確か、畑で採れたトウモロコシを母親に届けようとしたように記憶している。違うかな?) 


案の定、子どもだから迷子になるのだけど、個人的にはメイが夕暮れになって六地蔵?のところで泣き出すところが印象的だと思う。


普通に観れば、小さい子どもによくある迷子の話なのだけど、こういうのって大人になってもあるのかな、とふと。


愛する人ののために(別に老若男女問わない)、何かしようと思い立って出発し、迷子になるというモチーフ。


結果として、メイの思いつきはうまくいかず周囲にも心配かけているのだけど(その後猫バスに乗って叶いはするものの)、メイのやったことってなんだったのだろうと思う。



個人的な感想を言えば、メイってあんな子どもなのにすごいなあと素朴に思ってしまう。


彼女を動かしていたのは、母親を助けたい、という想いなのだ(それによって、姉の悲しみや不安も取り除きたいということもあるのだろうか?)


それで解決すべく出発し、迷って一人で大泣きしてしまっているのだ。


つまり、大誤算。

情けないと言えばそうだろう。


でも、大人でもこういうことってあるのではないか?(往々にして「こんなはずじゃなかった」という言葉が使われる)


こういう考えがいいのか悪いのかよくわからないのだけど、誰かのために何かをしたいと思うことって結構大事なんじゃないだろうか。


ただし、その実現方法はよくよく考えられなければならない。この作品は子どもということでいくらか割り引いて観れるけれども、誰かのためにということで何でも許されるということもない。結果として、相手に迷惑をかける場合も発生し得る。



まあ、こういうことをふと思い出してしまったという、ただそれだけ。



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あまり作品を美化するつもりは私にはないように思う。(なので一緒に友だちと観劇して感想を言っても注意される)


実現方法までの考慮があって、初めて他者のためにということが評価されるのかもしれない。


ああ、堅苦しくなってしまった。


夜は寒いですが、みなさん風邪など召されませんように。


おやすみなさい。

ごきげんよう。