鏡のなかのー迷宮ー①
みなさん、こんばんは。
エンデについて書くということを、早々に諦めていたのですが、既にちゃんとした文章を書くというよりは、考えるための下絵を書いているような気分になっている今日この頃。
つまり、ちゃんとしてないというのは、書いた後に推敲しない、ブラッシュアップしない、書き直さないという意味である。
まあ、さておき、今夜は『鏡のなかの鏡』(丘沢静也訳、岩波書店、2010年、第一刷2001年)。
カバー扉に次のようにある。
鮮烈なイメージと豊かなストーリーで織りなされる三◯の連作短編集。一つずつ順番に、前話をゆがんだ鏡像のように映しだし、最後の話が最初の話へとつながって、読者をめくるめく意識の迷宮へと導く。人間存在の神秘と不可思議さを映し出す鏡の世界の物語は、『モモ』『はてしない物語』とならぶ、エンデの代表作である。(解説 新宮一成)
とまあ、体裁としては、短編集であり、全て関連がないのではなく、前話が次の話にちょっと関連して成り立っている。こういった書き方は、別に珍しいものではないだろう。古くは1120年以降に成立したとされる『今昔物語集』も実はこの体裁を取り入れている。
この短編集の特徴は、父エドガー・エンデの絵が挿絵として随所に登場することもそうだろうか。残念ながら、絵はアップしないが、画像を探せば椅子が宙に浮いている絵など、簡単に見つけることができるだろう。画風といえば、シュルレアリスムに分類される。(この父親の絵もおいおい)
こういった画風に応じるかのごとく、短編集のほうも、SFのような感じに近いものが多い。
なので、『モモ』や『はてしない物語』の方を読んでいる人はこの短編集を読むとちょっと面食らうかもしれない。実際私も幾つか驚かされる単語やシチュエーションと出会った。
例えば、エロティックな表現があったり、惨めな敗北があり、やっとたどり着いた目的地で手酷い洗礼を受けて追い返されたり、身も蓋もない話が多い。全体的に退廃的な雰囲気が漂っている。
すくもぶんたん研究会
高知と言えば文旦。
バスケットボールのよう。
意匠を凝らしている、といった感じ。
今日は移動があって疲れたのでここまで。
おやすみなさい〜